世の中便利なものだらけである。
もちろんある種の便利さは人間の英知の結晶であり暮らしを豊かにさせてくれるものでもある。
でも、何から何まで便利にならなくたっていい気がするし、中にはそんな便利さは必要ないと思う事も少なくない。というか世の中にはそういった類の無用な便利さに溢れている。
でも考えてみてほしい。
便利なだけが人々の暮らしや感性を豊かにするものではないという事を。
例えばみんなが好きなキャンプ。
なぜ快適に日常生活を送れる便利な場所から、敢えて不便な場所へ行って手間のかかる事をやるのか?冷暖房なんて無い布一枚のテントに泊まり、寝る場所もフカフカのベッドではない。そしてキャンプでは時間と手間をかけて火をおこさなくてはいけないし(←何と言ってもキャンプのメインイベントですからね、これは)、またその火をキチンと管理しなくてはならない。
どうしてそんな不便な事をしなくちゃいけないのか?
答えは簡単。
不便が楽しいからである。(まあ中には何でも揃っているキャンプ場もあるみたいだけれど・・・)
不便というものはその裏側に物事のリアリティを隠し持っているものだと僕は思う。
だからキャンプにしろ、例えば薪ストーブにしろ、そこにはリアリティが存在する豊かさがある。何でもボタンひとつで揃う世界は豊かな社会なようで豊かな社会ではない。
そこにはリアリティがないから。
ある陶芸家の人が、電動ろくろではなくなぜ手動のろくろを使うのですか、という問いかけに、(そんな当たり前の事聞くなよとでも言いたげに)「
手動の方が便利だから。」と答えた。
確かに電動は楽チンだが融通が利かない。その点手動はろくろを動かす足先からも様々な情報が身体に伝わるし動かし方も融通が利く。故障も電動に比べたらはるかに少ないだろう。
もちろん不便なものだらけでは困ってしまうけれど、必要なものがある程度便利になっていればそれで良いと思う。丁度良い具合に。
物事のすき間を見つけ出して便利さで埋め尽くしてしまう。それはとっても息の詰まる世界なのではないだろうか。もっと余白というかルーズさというかそういったものが社会には必要だと僕は思う。